名人

どんな仕事であっても、名人と呼ばれるのは嬉しいもので、誰もがその道の名人を目指します。とは言え、名人になる為には高い持続的意識と長い年月における精進が必要です。一朝一夕にはなれません。
しかしながら、サービス業においてはそれほどでもないことが案外多いのです。標準的な結果を出せる技能と知識があれば、説得力のある説明で名人になれます。
例えば、医者。病状や病名、治療の方針や計画、経過、治療後の生活指導など。気持ちよく患者さんを納得させる術。所謂、インフォームド・コンセントをしっかりすれば、信頼され名医と呼ばれるようになります。
弁理士も同様です。明細書作成においても、強くて広いクレームであることは重要ですが、クライアントがそれに気付かなければ努力と力量が陽の目を見ることはないでしょう。

名弁理士と言えば、お一人での事務所経営ですが、名弁理士との誉れ高く、大手企業も含めて多くのクライアントのハートをわしづかみにしている、友人のN弁理士がいます。
兎に角、良い意味で口が上手です。明細書作成後や発明相談を受けた際の説明で、クライアントの皆様を虜にしています。説明のポイントが的確でクライアントのレベルや立場も考えた説明。相手に合わせて変幻自在です。ただしお世辞は一切言わないヒトです。
いつも、「さすが、N弁理士!と唸らせられています。
彼の明細書を分析したわけではないので、その能力を把握しているわけではありませんが、説明のうまさで名弁理士と呼ばれ、多くの発明者から指名されています。
ますます競争が激しくなる、これからの弁理士業、コミュニケーション能力で差別化を図る必要がありそうです。

それ以外では、「メラビアンの法則」ですね。
営業の世界では見た目が9割を決めると言われています。イケメン若しくは別嬪である必要はありません。よく言われるのは清潔感溢れた服装ですが、私は姿勢や表情が何より大事と思っております。
安心&信頼できる、余裕のある姿勢と表情。
このふたつ、これからの名弁理士には必須アイテムですね。

みなさん、頑張ってください!

孤独

先日、銀行の前に知り合いの弁理士が立っていました。大変無防備な背中。声をかけようと思いましたが躊躇してやめました。彼は通帳を開いてビルの谷間から見える空を見上げていたのです。たしか、彼は開業して一年程度。窮地に陥っていることがすぐに見て取れるマイナスのオーラ満開の背中。無視したわけではなく、あまりに気の毒に見えた為、声をかける勇気が出なかったのです。闘う男にとって励ましは不要。心の中で「頑張れ」とエールを送るのが精一杯でした。

特許事務所に限らず、経営者、とりわけ、創業者は孤独です。軌道に乗せられるか、資金が尽きて夢破れるか。成功するか失敗するか。収入が無い状態が続くのは本当に大変です。それ故、準備資金はもちろんのこと、強靭な精神力と意志、決断、行動力が求められます。一般の企業の生存率、10年では6%、30年後では0.025%。特許事務所の場合は初期投資が少なくてすむので、もう少し高いかもしれません。いずれにせよ、経営者たる者、誰にも泣きつくことはできません。一人で闘わねばなりません。所帯が大きくなれば従業員やその家族も背負うことになり、精神的負担はますます増大してゆきます。

経営者は「仕事が入らない」といった状態に陥る可能性と常に闘っています。不安と恐怖の中での毎日なのでそういった状況を夢でみることも多いのではないでしょうか。出費ばかりで収入のない状況、これは本当に恐いです。

その点、雇われる側はある程度気楽です。私も営業職で長年サラリーマンを経験してきましたが、成果を上げずとも収入は保証されます。研究や開発職も同様です。多少居心地が悪くなる程度です。

そういう意味では経営者と従業員の間に溝ができてしまうことはよくあります。大人同士ですから言動には出しません。が、目には見えない心情的な対立の溝が存在しているのです。特許事務所では特に多いです。

それぞれが自分の仕事に集中しているのみ。収入の保障によってのみ保たれている均衡。静かな職場ではあるも雰囲気最悪という感じ。不満という名の火薬で爆発寸前!そういった空気に圧倒されること、しばしばです。

そんな時は、思い切って一度破壊してしまうのも手です。雨降って地固まるとでも言いましょうか、お互いに思っていることを口に出し、共有できる部分、修正可能な部分、そういったところを見つけてゆく努力をするのです。そうすれば、その過程で溝が埋まり、絆が強くなるかもしれません。

恋愛や夫婦として長く付き合ってゆく秘訣と同じですね。簡単なことではありませんが、チャレンジあるのみです。やらないよりはやった方がいいはずです。無駄ではないので、そういった時間を作ってみてはどうかと思う今日この頃です。

格差

弁理士第一号は明治32年の138名(当時は特許代理業者という表現)になります。その後、徐々に増えるのですが、弁理士会強制加入という弁理士法の一部改正により、4389人だった弁理士が一気に2、604人になってしまいます。第二次世界大戦の影響もあり、戦後の昭和28年には926人まで減ってしまったようです。その後は増加傾向にあり、2013年には1万人を超えています。特に弁理士制度100周年を迎えた直後の2002年頃から急激に増え11年間で倍増となっています。小泉政権時のプロパテント政策による影響と思われますが、約10年で倍です。

20年くらい前までは、企業内弁理士は珍しい存在でしたが、今では、企業の知財部にも大抵、弁理士の方がいらっしゃいます。全体の3割くらいは企業内弁理士かもしれません。

さて、最近、企業で「大きな事務所じゃないと使えないよね。」というのをよく耳にします。この発言には2つのことが示唆されています。1つは、「使う」という意識。以前は、弁理士=先生という意識でしたが、企業知財部が強化されレベルが上がったことにより、「先生にお願いします。」から「自分たちでできないわけではないけど、忙しいから外部を使う。」に変わってきていることをうかがい知ることができます。本当にそうなのかどうかは不明ですが、特に大手企業の知財部の意識は変わった、と思われます。画一的な仕事ではなく、彼らを唸らせるようなプロとしての能力を発揮することが求められる時代に入りつつあることは確かです。それは特許発掘の場であったり、無効審判の為の打ち合わせの場であったりということになるのでしょうか。若しくは明細書や意見書になるのでしょうか。いずれにせよ、気付いてもらうことも大事なので、さりげなくPRする必要があるかもしれません。

もう1つは「大きい事務所でなければ」という発想です。さすがに「大きな事務所に勤務する弁理士だけが優秀だ」と思っている方はいないでしょう。この発想、企業のグルーバル化とIT化によるところが大きいと言えます。海外出願案件の増加により国内事務所では海外事務所との連絡頻度が増加しています。また、米国のみならず、EP、中国、韓国、インド、東南アジアと、対象国も増え、海外事務所とのパイプと対応力が求められています。内内よりも内外の方がはるかに利益率は高いので経営的にはありがたいはずですが、内外には、立替金の問題が常につきまといます。また、連絡上の誤解や書類のミスも考えられ、その確認とチェックの為、仕事量は膨大になります。その為、内外では事務所としての資金力、語学力、管理体制が重要になってきます。

また、IT化は企業にとっても事務所にとっても効率を考えるとありがたいはずなのですが、クライアントによってシステムやルールが違う為、事務所ではクライアント毎に対応する必要があり、事務的仕事は、ますます複雑になっています。事務所の負担は逆に増しているような気もします。しかしながら、それを乗り越えてゆかねば経営は成り立ちませんので、どこまでも対応する必要があります。

このグローバル化とIT化について言えば、個々の弁理士の能力よりも事務所全体としての管理体制が重要になってきます。特に特許事務部門の能力と手腕が発揮される部分であり、特許事務部門の強化に注力している経営者が多いような気がします。内外が今後も伸びることを考えると、事務部門では特に英語に長けた人材の需要が増し、人件費の高騰、職場での地位向上が予想されます。

特許事務所経営者の皆さんは既にそんなこと百も承知で何年も前から大手事務所も少数精鋭事務所も事務部門を含む管理体制の強化を進めていると思うので、本当は小さな事務所だから依頼できないということはないはずです。しかしながら、大手事務所と少数精鋭事務所とでは、企業の方が事務所の見学をした際に受ける印象が違うので、大手事務所に依頼した方が安心、ということになるのかもしれません。

「特許発掘や意見書の場でプロの能力を発揮する一人事務所の職人的弁理士」と「完全な事務管理体制を整えた事務所」を天秤にかけた場合、判っていても、管理体制に軍配を上げざるを得ないというのが本音なのでしょうね。

結果的に事務所の格差はますます広がるだろうと思います。規模や受任件数、クライアント数ももちろんですが、それらに比例して資金面や管理体制においても同様のことが言えます。少数精鋭事務所は内外や外内に走らず、内内に特化。個々の弁理士能力で勝負するといった方針をとるなどの工夫が必要になるのではないでしょうか。

とは言え、弁理士本来の能力よりも管理面を重視するといった流れになってしまうと、1件の出願に300万円くらい平気で報酬を払うという、バブルに沸く米国IT企業などは、ある意味全く逆の方向に注力しており、企業知財部は注意が必要です。

選択

幼少の頃から海で泳ぐことが大好きだった私は、夏休みはほとんど海で遊んでいました。故郷である香川県にはゆったりと遊べる浜が多かったのです。当時はほぼプライベートビーチでした。ですので、家族を養うようになっても、夏になると皆を引き連れ、よく海水浴やキャンプに出かけたものです。
話は変わりますが、28年前、私は教師を辞め、家族とともに香川から大阪に出てきました。ある夏の日、毎日まいにち飽きもせず「となりのトトロ」をビデオで観ている3歳の長女の姿に気付き、家族サービスを決意。茨木市営プールに赴きました。脱衣所に聞こえてくるキャーキャーという歓声。微かにする嫌な予感。プールサイドで予感的中。プールというより公衆浴場。芋の子を洗うような様に唖然としました。
市営プールを選択した自分が馬鹿だった。やはり海しかない!早速、会社の先輩達に訊ねると皆、口を揃えて「須磨か二色の浜やな。」と言います。「そうか須磨か。」その週の土曜日、軽自動車に家族を詰め込み、いざ須磨へ!
ところが、待っていたのは渋滞。当時の私の車にはエアコンがなく、窓全開。じりじりと照りつける太陽。滴る汗。親子4人がゆでダコ状態から解放されるのに2時間はたっぷりかかりました。しかも、窮屈な駐車場に悪戦苦闘。おまけに駐車料金800円。それでも、気を取り直して微かな潮の香りを楽しみながら知らぬ間に速足に。浜はすぐそこだ!白い雲、青い空、白い砂浜、青い海、真夏の太陽。妄想はどんどん膨らみます。
民家らしき建物に挟まれた石畳の小路を下って私が見たモノは?目を疑いました。茫然自失です。圧倒されました。
1万人くらいはいたかもしれません。浜も海も人で埋め尽くされて立錐の余地もありません。まさに、おしくらまんじゅう。「大阪・神戸はそんなに甘いところとちゃうでぇ。」吹く海風がそう聞こえました。白浜は?と今の若い人は思うでしょうが、当時は高速道路もなく、それこそ2泊3日くらいの旅行でなければ白浜は無理だったのです。
結局、海水浴は諦め、ドライブに変更。半ばやけくそで西に向かい、2号線を走りました。
舞子辺りでしょうか、ちらちらと左側の視野に浜が入ってきます。まばらに人も見えます。半信半疑で車をUターンさせ浜の手前の公園に車を停めてみると、須磨の半分くらいの浜に30人くらいがゆったりと遊んでいるではありませんか!午後3時を過ぎていましたが、急いでテントをはり、水着に着替えて、子供たちと海に飛び込みました。帰り際に、近くにいた青年に訊ねると「みんな知らんだけや。ここは地元のモンだけや。須磨に行くのはアホや。」とのこと。店も無ければシャワーもない浜。しかし、幼少の頃から慣れ親しんだ浜を思い出させてくれる、ゆったりとくつろげる、最適な浜でした。まさにどんぴしゃの快適発見。
翌年、双子誕生で6人家族となり、車はエアコン普通車に。その後の海水浴はもちろん舞子です。
ちなみにその浜、今ではアジュール舞子海水浴場という名前で知名度も上がってしまったようですけどね。

普段の生活や仕事の上でもそうですが、物事を選択する際、とかく私たちは失敗を恐れて、「売上No.1」のフレーズやブランド力に頼ったり、お隣さんや先人の歩んだ道を迷うことなく進む傾向にあります。しかしながら、メジャーがマイノリティより上でないことはよくあることです。また、先人の歩んだ道が最適解とは限りません。
「みんなで渡れば恐くない」はババをひく、「それしか知らない」はババをひく、私はそう信じているので、毎日、毎週、毎月、毎年「変革者たらん!」を肝に銘じております。100%変革は恐いので「40%の好奇心と変革スピリッツ、そして60%の継続」を意識しています。

たかが1億、されど1億

先日、弁理士のHさんにランチをご馳走になりました。彼女は私より年下なので、最初は私が奢っていたのですが、いつの間にか立場が逆転してしまいました。

最初に出会ったのは10年くらい前だったでしょうか。私がまだ特許情報サービスの会社で営業をしていた頃です。大手特許事務所を辞め、開所したばかりの彼女の事務所を訪問しました。こじんまりとしたオフィスに机とパソコン、FAXがあるだけでした。彼女と共同経営者であるもう一人の弁理士だけがポツンと椅子にかけていました。3人でつい世間話。気がつくと3時間経っていました。お二人とも明るく振舞っていましたが、不安と闘っているのがその表情から読みとれ、何とかお手伝いしようと決意した記憶があります。

当時私は在阪の企業知財部や特許事務所を訪れ、雑談の中で相手の潜在的課題を引き出し課題解決の提案をする、その過程で自社の商品やサービスを紹介してゆくというスタイルで営業をしていましたので、自然と相手の愚痴や不満を聞くことが多かったのです。特許事務所の所長先生からは、愚痴や不満だけでなく、経営哲学や独立当時の苦労話をうかがうこともよくありました。今思えば、遠回りで時間のかかる営業スタイルでしたが、そのおかげで、皆さんと今も友人としてお付き合い頂いています。

さて、話を戻します。創作中華で、大変おいしい料理でした。私がナプキンで口の周りを拭っていると、既に食事を終えた彼女が背中を少しかがめ、前のめりになりながら愚痴をこぼし始めました。
「所得税と住民税、腹立ちません?源泉徴収票、見てびっくりしました。」
そう、彼女は3年前に事務所の経営状態悪化が原因で共同経営者とたもとを分かち、開業弁理士から勤務弁理士に戻っていたのです。勤務弁理士とは言え、青天井歩合制の給与体系の事務所なので、かなりの高給だろうとは思っていたのですが、仔細に聞いてみると年収2000万は超えているであろうことがわかりました。開業時は赤字続きで収入ほとんどなく、いつも眉間にしわを寄せ、質素倹約を絵にかいたような日々を送っていましたが、勤務弁理士に戻ってからは昔の明るさを取り戻していました。人生、お金だけではありませんが、収入がない、若しくは極端に少ないと心が貧しくなってゆくものです。経済的ゆとりがあると心も豊かになってゆきます。

私は彼女の話を聞き流しながら彼女の年収について考えました。企業研究員のままだったら、31歳から65歳までで平均年収700万として31歳以降の収入は2億4千万円前後。固定給である大手事務所に勤務し続けた場合なら31歳以降の収入は3億円前後。開業弁理士のままで軌道に乗らなかった場合なら31歳以降の収入は2億前後。現在のまま年収2000万をkeepした場合はなんと31歳以降の年収が5億4千万になります。開業にこだわり続けるか勤務弁理士(パートナ―弁理士ではありますが)に戻るかで収入3億円以上の差が出るわけです。えらい差です。彼女の場合は極端ですが、人生における選択で生涯年収1億くらいは直ぐに変わってきます。たかが1億、されど1億です。

また、自分で職場を選択できるという意味で弁理士資格、羨ましい限りです。私も20年くらい前に挑戦しましたが挫折しました。

私は3年前に23年間勤務した特許情報サービス会社を辞め、起業を目指して細々と特許事務所と企業の仲介や調査の仕事を開始。同時に生活の為今の職業紹介の会社に採用してもらいました。この9月からは起業に専念する為、固定給無しの完全歩合制にしてもらい自由に活動しています。自由ですが極貧です。なので、彼女からご馳走してもらう立場に転落してしまいました。

ああ、あの時諦めずに勉強して弁理士資格を取っておけばなあ、と思うことも時々はありますが、前を向いて進むのみです。